「地方はもっと地方色を出したほうがいい」
「ロードサイドばかりが発展するのはいけない」
今日も今日とて東京人は東京からもの知った顔で地方についての意見を垂れ流しています。
果たして、我々のような地方在住の人々は、東京人による東京からの意見に耳を貸すべきなのでしょうか。
東京人というマジョリティ
ここで言う東京人とは「東京に行く」という行為のハードルが低い人のことで、以下の様な人を指すものとします。
- 東京に済んでいる
- 東京近郊に住んでいて、電車1本でに簡単に遊びに行ける
- 東京に職場や活動拠点がある
こうやって東京人を定義すると関東地方のほぼ全て、つまりは国民の3-4割ほどが東京人といってもいいんじゃないでしょうか。
また、たとえ地方出身であったとしても、故郷の風景を憂いているのであっても、東京の方から意見しているというのであればそれは東京人の意見です。
「古き好き日本の風景」は東京人の妄想
さて、東京人からのありがたいご意見の中によく見られるのが、「古き好き日本の風景」を取り戻すというものです。
ここで言う「古き好き日本の風景」とは広大な田園であったり、自然と共和している里山だったりの、ステロタイプで風情がある感じの風景のことです。 そうそう、下記の写真のようなやつですよ。
東京人はこう言った「古き好き日本の風景」をみて昔を懐かしみます。 時にはこう言った「古き好き日本の風景」を体験しようとします。 「おもひでぽろぽろ」を思い浮かべていただければ、私が何を言わんとしているかが分かると思います。
ですが、実際に「古き好き日本の風景」の土地に住んでいる人にとっては、そんな東京人の郷愁なんてどうでもいいんです。 例えば、上の写真にも写っている茅葺き屋根にしても、現在の建材を使うよりも維持にコストや手間がかかります。 家はあくまで住むための実用品なのですから、そういったコストを支払うなんてよほどの酔狂な方でないとしませんよ。
そもそも、里山にしたって景観のために作ったものではなく、人間が住みやすいように山々を切り開いたものです。 そして、時代の流れに合わせて不便な点が顕在化してきます。 そうなれば里山の景観なんて維持する道理もないので、人々はより便利な生活を求めて、画一的な地方の風景を築くのです。
かくして、東京人の妄想である「古き好き日本の風景」は、そこに住む人たちの希望によって破壊されるのです。
東京人はある意味正しい
東京人の意見というものは妄言であって、間違っているものなのでしょうか。
東京人の意見でよくあるものには、東京を礼賛しつつ地方の経済体系に異議を唱え、それぞれの地方の持ち味を発揮すべきだという結論を添えるものです。 乱暴な意見ならば上記に加えて「俺はお前らよりも現実を知っている」「お前らは何もわかっていない」「黙って俺の言うとおりにしろ」という論調です。
でも、こういった意見は結構的を得ており概ね正しいとも言えます。 このまま何も手を打たなければ地方自治は崩壊を待つばかりというのは、これまでの結果を見る限りは火を見るよりも明らかな事実なのです。
東京人が地方創生を望むなら行動するしかない
東京人がどんなに意見しようとも、地方人にとっては馬の耳に念仏です。 なぜなら、実際に地方に住む人たちにとっては東京人が望む地方創生などそんなに重要ではないからです。
まず、地方人は地方創生の方法を知りません。知っているならすでにやってますし。 なので、東京人が地方創生を望むなら、東京人が率先して動かなければなりません。 地方に対して様々な問題意識を持ち、地方に対する意見を述べているのなら、あとはその持論に則って行動すればいいのです。 少なくとも何をすればいいのかすらわからない我々よりも適任だと思います。
トマト野郎などと揶揄されるほど東京人のみなさんが大嫌いなイケダハヤトさんですが、彼はなんだかんだ言って高知を持ち上げたり、高知に金を落とそうと活動しているので、地方創生に一役買っているんじゃないですかねぇ。 地方創生的な観点からすれば、こんな風に活躍してみたいものです。
東京人たるあなたは地方に活力を取り戻したいのでしょうか。それとも、ただただ日々の鬱憤を晴らすために物知り顔で意見したいだけなのでしょうか。
そういえば
なんか過去にこんな記事を書いているため、私も東京を礼賛しているように思われるでしょうが、この記事も本質は東京一極集中と地方民が東京を目指すしかないという現状を書き、そんな現状を悲観しているものです。あしからず。
- 作者: 増田寛也
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